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お寺のプロフィール
浄土宗願王殿大頂寺
ー悠久の時を流れて一
丹後の宮津
京都府北部、宮津湾・天橋立のほとり宮津に、丹後国の国府として、七万石の城下町宮津が作られたのは、
元和8年(1622年)から寛永13年(1636年)までの約15ヶ年、今から400年も前のことである。
それまでの寂しい漁村から、一躍戸戸数2000軒、新城下町人として集められた6300人を含め、
人口約1万人、七万石の城下町は、新領主京極高廣により作られた。
城郭は、東西を岸壁に挟まれ、大江山を越えなければ攻め入ることの出来ない自然の地形を利用して、
宮津の中心を流れる大手川の中洲に築かれました。
その後の宮津の繁栄は、丹後ちりめんや海産物、醸造産業に支えられ、日本海を西へ東へ走る北前船の
港町として、産物を商う回船問屋や、納屋町には幾つもの大きな蔵の建ち並ぶところとなりました。
また、日本三景を一目見ようと集まる旅人、そしてその人々が泊まる多くの旅籠など、
日本海側有数の港町として賑い、全国津々浦々に知られるところとなりました。
今なお唄われる宮津節も、人々にとって魅惑的に栄えた宮津の町を象徴するものとして生まれ、唄い継
がれて来たものでありましょう。
丹後國宮津と大頂寺
寶徳山瑞泰院願王殿大項寺は、京都東山の知恩院を総本山と仰ぐ、浄土宗の寺である。
本尊を阿弥陀如来に、脇土には観世音菩薩と勢至菩薩を遵いお祀りしています。
開山は今から約400年前、豊臣から徳川の時代に変わろうとする慶長11年(1606年)、
現在の杉ノ末犬の堂山上(詳しい位置不明)に、丹後國宮津藩主京極高知により、京極家の香華院(菩提所)
として建立された。
後、京極高知の子高廣が丹後國国主になるにあたり、東照大権現宮家康公ならぴに、徳川
二代将軍秀忠公、三代将軍家光公御法楽の為として犬の堂より、現在の地「金屋谷」に引移したものである。
精舎のほか、徳川家御霊屋を建て、二代・三代将軍の寶筐印塔三基(境内に現存)を建立、併せて、
高廣の菩提所とした。
以来、本庄宗武公の明治維新まで、阿部対馬守、青山大膳太夫等、歴代の宮津藩主の菩提所となり、
また、代々の城主は、徳川将軍家の御位牌をここ大項寺に奉納する習わしでもあった。
寺号の端泰院というのは、京極高知公の戒名、瑞泰院殿より名付けられたものである。
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